20201116 天声人語 坂田藤十郎さんを悼む
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天声人语 11/16 坂田藤十郎さんを悼む(いたむ)
日本文学者のドナルド・キーンがその舞台を京都で目にしたのは、1953年だった。「私が歌舞伎に開眼(かいがん)したのはこの時だった。そして、最初に魅了されたのは女形(おやま)であった」。著書『能・文楽・歌舞伎』にそう記している▼
1953年,日本文学研究者唐纳德·基恩在京都第一次欣赏了坂田藤十郎的表演。后来,基恩在其著作《能剧、文乐、歌舞伎》中写到:“那天,我明白了何为歌舞伎之美。而且,最先令我着迷的是其中的‘女形’。”
演目(えんもく)は、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の「曽根崎(そねざき)心中」。主人公のお初(おはつ)を演じた女形は二代目中村扇雀(せんじゃく)、後の四代目坂田藤十郎(とうじゅうろう)さんである。目を奪われたのはキーンだけではなかったようで、世に扇雀ブームが起きた。お初が男の手を取って死に場所へと向かう姿は、当時としては斬新(ざんしん)だったという▼
基恩观看的演出是近松门左卫门的作品《曾根崎殉情》。扮演剧中主人公阿初的“女形”是第二代中村扇雀,即后来的第四代坂田藤十郎。沉醉于表演中的不只是基恩一人,当时社会上也出现了一股“扇雀热潮”。阿初牵着男人的手迈向死亡之地,在那个年代,这样的情节是十分新颖的。
「新しい女形の誕生」ともたたえられた上方(かみがた)歌舞伎の若き(わかき)役者は以来、近松作品に光をあて続ける。「近松座」も結成(けっせい)し、お初を演じたのは実に1400回にのぼる。人間国宝(こくほう)にもなった藤十郎さんが88歳の生涯を閉じた▼
此作品后,世人称赞这位年轻的上方歌舞伎演员代表了“新‘女形’的诞生”,之后他出演的近松作品也都备受瞩目。后来,他创立了“近松剧院”,光是“阿初”这一角色就足足演了1400多次。11月12日,被誉为“人类国宝”(重要无形文化财产保持者)的藤十郎与世长辞,享年88岁。
少年のころは歌舞伎がそれほど好きではなかったというが、指導者に恵まれ開眼した。能や京舞(きょうまい)などの第一人者たちを師匠に、芸を磨いた▼
据说,少年时代的坂田并没有多喜爱歌舞伎,在有幸遇到良师后,才领悟到歌舞伎的精髓。后来,他还拜“能剧”、“京舞”首屈一指的大家为师,继续磨炼演技。
元禄(げんろく)時代の上方の名優、初代坂田藤十郎にあこがれ、その名を継ぐのが長年の願いだった。江戸を代表する市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)の名は受け継がれているのに、藤十郎は絶えて久しかったからだ。政治や経済、そして文化の東京一極集中(いっきょくしゅうちゅう)が進むこの国にも思うところがあったに違いない▼
藤十郎非常敬仰元禄时代的上方名演员——初代坂田藤十郎,他多年的夙愿便是能继承他的名字。因为代表江户歌舞伎的“市川团十郎”的家名一直得以沿袭,而代表京阪地区歌舞伎的藤十郎之名却迟迟无人继承。一定是因为他对日本政治、经济及文化中心一齐向东京首都圈靠拢这一现状有着自己的想法,才会做出这一选择吧。
役作りは原作を読み直すところから始めた。千回以上演じた役でも「今度はこうしよう、明日はこう演じてみよう」と臨むのだと自著(じちょ)にある。体の動く限り、つやのある役を演じ続けた。
藤十郎对角色的塑造是从重读原作开始的。他在自己的著作中提到,即便是面对演了一千次以上的角色,仍会抱着“今天这样演,明天换一种方式演”的态度。对他来说,只要身体还能动,就会继续扮演娇艳动人的“女形”。
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日本文学者のドナルド・キーンがその舞台を京都で目にしたのは、1953年だった。「私が歌舞伎に開眼(かいがん)したのはこの時だった。そして、最初に魅了されたのは女形(おやま)であった」。著書『能・文楽・歌舞伎』にそう記している▼
1953年,日本文学研究者唐纳德·基恩在京都第一次欣赏了坂田藤十郎的表演。后来,基恩在其著作《能剧、文乐、歌舞伎》中写到:“那天,我明白了何为歌舞伎之美。而且,最先令我着迷的是其中的‘女形’。”
演目(えんもく)は、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の「曽根崎(そねざき)心中」。主人公のお初(おはつ)を演じた女形は二代目中村扇雀(せんじゃく)、後の四代目坂田藤十郎(とうじゅうろう)さんである。目を奪われたのはキーンだけではなかったようで、世に扇雀ブームが起きた。お初が男の手を取って死に場所へと向かう姿は、当時としては斬新(ざんしん)だったという▼
基恩观看的演出是近松门左卫门的作品《曾根崎殉情》。扮演剧中主人公阿初的“女形”是第二代中村扇雀,即后来的第四代坂田藤十郎。沉醉于表演中的不只是基恩一人,当时社会上也出现了一股“扇雀热潮”。阿初牵着男人的手迈向死亡之地,在那个年代,这样的情节是十分新颖的。
「新しい女形の誕生」ともたたえられた上方(かみがた)歌舞伎の若き(わかき)役者は以来、近松作品に光をあて続ける。「近松座」も結成(けっせい)し、お初を演じたのは実に1400回にのぼる。人間国宝(こくほう)にもなった藤十郎さんが88歳の生涯を閉じた▼
此作品后,世人称赞这位年轻的上方歌舞伎演员代表了“新‘女形’的诞生”,之后他出演的近松作品也都备受瞩目。后来,他创立了“近松剧院”,光是“阿初”这一角色就足足演了1400多次。11月12日,被誉为“人类国宝”(重要无形文化财产保持者)的藤十郎与世长辞,享年88岁。
少年のころは歌舞伎がそれほど好きではなかったというが、指導者に恵まれ開眼した。能や京舞(きょうまい)などの第一人者たちを師匠に、芸を磨いた▼
据说,少年时代的坂田并没有多喜爱歌舞伎,在有幸遇到良师后,才领悟到歌舞伎的精髓。后来,他还拜“能剧”、“京舞”首屈一指的大家为师,继续磨炼演技。
元禄(げんろく)時代の上方の名優、初代坂田藤十郎にあこがれ、その名を継ぐのが長年の願いだった。江戸を代表する市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)の名は受け継がれているのに、藤十郎は絶えて久しかったからだ。政治や経済、そして文化の東京一極集中(いっきょくしゅうちゅう)が進むこの国にも思うところがあったに違いない▼
藤十郎非常敬仰元禄时代的上方名演员——初代坂田藤十郎,他多年的夙愿便是能继承他的名字。因为代表江户歌舞伎的“市川团十郎”的家名一直得以沿袭,而代表京阪地区歌舞伎的藤十郎之名却迟迟无人继承。一定是因为他对日本政治、经济及文化中心一齐向东京首都圈靠拢这一现状有着自己的想法,才会做出这一选择吧。
役作りは原作を読み直すところから始めた。千回以上演じた役でも「今度はこうしよう、明日はこう演じてみよう」と臨むのだと自著(じちょ)にある。体の動く限り、つやのある役を演じ続けた。
藤十郎对角色的塑造是从重读原作开始的。他在自己的著作中提到,即便是面对演了一千次以上的角色,仍会抱着“今天这样演,明天换一种方式演”的态度。对他来说,只要身体还能动,就会继续扮演娇艳动人的“女形”。
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