マタイの福音書4:1~4「人はパンだけで生きるのではなく」_北澤牧師
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①昨年の6月から7回に渡りイエスさまの語られた譬え話の箇所からメッセージを語らせていただきました。
・2022年も、新しいシリーズで語るようにとの命をうけましたので、きょうからは「イエスキリストの公生涯」というシリーズで語ってゆきたいと思っています。
・もし、皆さんが、このシリーズを、お休みすることなく聞き続けてくださると・・
約三年半のイエスさまの、その公生涯の歩みの全体像が浮かび上がってくると思います。
・そして、そのことが、皆さんお一人お一人の、信仰の基礎となってゆかれたら・・
そんな願いを込めて、準備し、語ってゆきたいと思っています。
〇第一回目は、マタイの福音書の4章のところです。
・皆さんは、きょうの聖書箇所、マタイの4章の朗読をお聞きになって、その中のどこが気になるでしょうか・・。
・多くの方が気になる所、それは、おそらく、主イエスの語られた4節の御言葉ではないかと思います。
・私も、この4節のところがとても気になります。 それは、次のような「意味深な御言葉」です。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
・きょうはこの御言葉に光を当ててゆきたいと思っています。
②主イエスは、この時、砂漠にあって「四十日四十夜、断食」という、いわば極限状態に置かれていました。
・「極限状態に置かれると、人は、その心の奥底にあるものが明らかになってゆく」
こういう言葉は、よく聞かされることです。
・では、これは、単なる一つの理屈なのでしょうか・・ 私はそうではないと思います。
・60年70年80年90年、と生きてこられた方なら、きっと、 極限状態、或はそれに近い状態に置かれた経験がおありだと思います。 そして、その時、そこで初めて、自分の心の奥にあるものを知ることになった。 そこで初めて、自分の本当の姿を知ることになった。 こういう経験を一度や二度はなさっておられると思います。
・人となって、私たちの世界に来てくださった、救い主、主イエス・キリストも同じでありました。
・ここで、主イエス・キリストは、救い主としての、その本質が、次第に明らかになってゆくのでした。
③極限状態にあった主イエスのもとに、「試みる者」が近づいて来て、こうささやきました。
→「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
・考えてみますと、「あなたが神の子なら」とは、実に悪魔的誘惑です。
持ち上げておいて、足元をすくおうというわけです。
・私たちも、持ち上げられたりすることがあるかもしれません。そういう時は気を付けたいと思います。
・ところで、ここに登場する「悪魔」ですが・・、
・長い間、牧師をしてまいりました経験から・・この悪魔という言葉を聞くと、ご自分が読んだ小説であるとか、映画であるとか、アニメなどを思い起こし・・、何か、一種、奇怪なサタン像を心の中で膨らませてしまう。そういう方が多いように思います。
・そこで、私は、そういうことが皆さんの中に起きないように、 この先は、試みる者という言葉だけを使ってゆきたいと思います。
・さて、この、試みる者は、ここで、「神の子であるならば、石がパンになるように命じなさい」と主イエスに言出すのですが・・よくよくこの発言を考えてみますと、この言葉の中に、この試みる者の考え方がよく表れていると思います。
・どうやら、彼は、「石がパンになる」そういうことが、とても大事なことであると、考えているようです。
・また、彼は、「石がパンになる、そういうことをしてくれる存在こそ、神の子と呼ぶにふさわしい」と、人々は考えてゆくに違いない、人間とはそういうものなのだ」と、考えているようです。
・「石がパンになる」こういうことが、起こると、人は、「これこそ、神による奇跡だ。そんな風に思う。
人間とは、所詮、その程度のものたちだ。」彼はそう考えているようです。
・しかし、どうでしょうか・・石がパンになる。つまり、パンが一個出現する、ということですが・・
これは、はたして、大きなことなのでしょうか・・。
・私は思います。 「石から、高級なビーフステーキができたと言うならまだしも、石からパンじゃ、たいした喜びにはならないなあ・・」
・しかし、確かに、この試みる者が考えている様に・・こういうことが起こると、「これこそ神による奇跡」そう思って興奮する、そういう方は意外に多いのかもしれません。
・聖書中にも出てきます。 あの5千人の給食の場面、男だけでも5千ですから、おそらくは一万人以上の人々が、パンを食べたのですが、人々はまんぷくし、尚12のかごにパンは残ったのでした。
・すると、人々は熱狂したのです。そして、口々にこう言い出したのでした。
「この方こそ世に来られる預言者だ!王になるべき方だ!」
・しかし、主イエスは、そういう人々の姿を見ましたとき、静かに、その熱狂の場から去ってゆかれるのでした。
・ヨハネ6:14-15にはこのように記されています。 「人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。 イエスは、人々がやって来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。
・いや、聖書に出てくる人々だけではありません。 もっと、身近にいるような気がしてなりません。
そうです。 こういう反応は、他でもない、私たち一人一人の中に、起こりやすいことなのではないでしょうか・・。
・日本で生まれた宗教を調べてみますと・・ほとんどがこのご利益主義が、その中心的考えとなっています。
・これは、私たち一人一人が、己の胸に手を当てて考えなければならないことである、と思います。
④ところで、ここに出てくる「パン」ですが・・
ここでのやり取りでは、正にパンという食べ物そのものを指しているのですけれども・・
・ここで、聖書が、私たちに投げかけている、メッセージとしてのパンの、その意味は、もっともっと広いものです。
・この言葉の意味するところは、食べ物、飲み物は勿論。 住まいも、また、私たちの肉体を支えてゆく為に必要な、物質や、はたまた、私たちが生きて行くために必要な精神的糧、それらすべてのこと含めて、パンという言葉を使っている、そう解釈すべきです。
・つまり、聖書が「パン」ということばを使うとき、ほとんどの場合、生命を維持するため、また、その生活を向上させるために必要な、すべてものを総称してパンと言っております。
・この誘惑する者は、「人は、そのパンがあれば、幸せと感じ、パンが乏しいと思えば、不幸だと感じる。
そうであるに違いない。」そう考えているようです。
・ですから、彼は、「あなたが神の子なら、これらの石が、パンになるように命じなさい」このように言えば、主イエスであっても、「なるほど、では、そうしましょうか」と乗って来るに違ない。そう考えたのです。
・しかし、主イエスは、この誘惑にまったく乗りませんでした。
そして・・、旧約聖書(申命記8:3)の言葉をもって、この、試みる者の主張を退けるのでした。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つの一つの言葉で生きる、と書いてある。」
➄しかし、ここで、私たちが注意しなければなないことが一つあります。
・それは、ここで、主イエスは「パンなどいらない」そういうことを語っておられるのではないということです。
・主イエスが語られたのは、「人は、パンだけで生きるのではない」でした。
・人は、パンだけで生きるのではない、うどんでも、ごはんでもいいのではないか・・勿論、そんなことをおっしゃっているのでもありません・・
・また、「パンなど無くてよい、もっと大切なことがある、人間は知識や知恵が大事なのだ。いや、芸術が大事だ。 いやいや、パンより人の愛情だ。パンより心の方が大切なことなのだ。」そういうことを主イエスが、語っているのでもありません。
・広い意味での、ここで言う、パンとは、今申しましたように、人の生命と生活を支えているものですから、勿論、人にとって、必要不可欠なものです。 確かに、なくてはならないものなのです。
・しかし、「人は、そのパン、それだけで生きてゆくのではない」、主イエス・キリストはそう言われたので
あります。
・「人が、神さまから、人生の意味や、その目的を教えられ・・、次の世界への希望が与えられ・・、その希望をもって、この地上での日々を喜び感謝しつつ、活き活きと生きてゆく・・、そういうことが成り立つのは、パンだけによるのではない。」主イエス・キリストはそうおっしゃったのでありました。
⑥私たちが、求めて行くべき事は何か・・だいぶ絞られてきました。
・「人はパンだけで生きて行くのではない、」と語られた主イエスは・・では、何を求めて生きて行くべきだ、とこの後、教えられたのでしょうか・・
・主イエス・キリストの語られた御言葉をもう一度読んでみます。
「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば・・」
・そうです。私たちが、希望を持ち、喜び、感謝しつつ、活き活きと生きて行くために、求めなければならないもの、それは・・神の口から出る一つ一つのことば、である、と主はおっしゃったのでありました。
・では、それは、具体的には、どういうことなのでしょうか・・。
そのことについては、次回、またご一緒に考えてゆきたいと思います。
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